

1958年、福岡県筑後市生まれ。75年より博多で板前修業をスタートさせ、83年より京懐石「柿傅(かきでん)」にて和食の修行を積む。東京代官山の日本料理「だいこんや」料理長を皮切りに、センチュリーハイアット東京、グランドハイアット東京などを経て、05年コンラッド東京の日本料理 統括料理長に就任。10年4月に退職し、食のコンサルティング会社「典座舎」設立。




日本の食の風景「こころのキッチン」を守り、育てて行くために、 様々な立場の、様々な人たちが、様々な活動を続けています。
今回は、「地域食材、地域料理を用い、その地区の活性化を目指す」というテーマで全国の自治体や組合と連携し、活動している「典座舎」代表・齋藤章雄さんにお会いしてきました。
今回は、「地域食材、地域料理を用い、その地区の活性化を目指す」というテーマで全国の自治体や組合と連携し、活動している「典座舎」代表・齋藤章雄さんにお会いしてきました。
土地をよく観察し、地元で働く人々と対話を重ねることで、
地域の特色を生かした料理やサービスが生まれる。
コンラッドホテル東京の日本料理 統括料理長を辞職して、この4月に食のコンサルティング会社「典座舎(てんぞしゃ)」を設立しました。「典座」の意味は、臨済宗で「料理を司る所」。お坊さんの最初の修行の場で、一言で言えば料理番みたいなものです。
現在の業務は地域の旅館や飲食店のコンサルタントです。市町村や地域単位がクライアントで、長野県の旅館組合から、場所としては新潟県の松之山温泉、群馬県の草津温泉、徳島県の祖谷温泉、長崎県の五島列島にある小値賀島、沖縄の国頭村などさまざま。地方の特色を出した料理やスイーツづくりのアイデアを一緒に考えています。
料理人であれば、自ら料理のアイデアを出し、実際に作ってみせるのが普通なのかもしれません。でも私は料理を作るのではなく、地域をよく観察することから始めます。そこで働いている人たち――旅館の経営者やおかみさんや料理長、または農家の生産者たちなど、彼らと対話を重ねることで、どういった料理がいいのかを一緒になって考えるのです。
皆さんよく「よそとの違い」ということを言われます。「よそと違った料理を出したい」「よそにはないサービスがしたい」と。ではその「違い」とは何かと考えると、一番は環境なのです。その土地の環境そのものが、よそと違う。しかし、その場にいる人たちはそのことに気がつかない。あるいは当たり前のように感じている。たとえば食べ物に関して言うと、どちらかというと飽きている。自分たちが飽きているから、他県から来る人も飽きているだろうと無意識に思う。だからどんな料理を出せばいいのかわからない。まさに灯台下暗し。私の仕事はまず彼らにそのことに気がついてもらうことなのです。
地域の特色を出すには地元を大事にすることが重要です。地元の食材に何があるか、冷静に棚卸しをしてみる。その中で人に自信を持って売れる商品は何かを考える。それが地域の活性化にもなるし、よそとの違いも出せます。先日は新潟の咲花温泉で、地元五泉産の「帛乙女」という里芋を使って「咲花ボール」というコロッケを作りましたが、たいへん好評だと聞いています。



松之山温泉の冬の名物料理「とろろ朝まんま」は、地元の農業生産者が栽培した自然薯をたっぷりと使用した逸品。
日本料理をもっとグローバルに伝えたい。
まずは地元活性化と、外国人に門戸を開いたレストラン。
私が料理の世界に入ったのは17歳のころで、母方の伯母が日本食レストランを紹介してくれたのがきっかけです。1年くらい働けば義理も果たせるかなと思っていたけれど、気がつけば3年が経っていた。それで料理を続ける決心をし、いくつかの店を経て、京懐石「柿傳」で働くことに。ここで季節の器と季節の料理のバランスを学べたことはとても大きかったです。
最初についた料理長が「10年経ったら一人前だ」と言っていたので、私は「30歳になったら何がなんでも料理長になる」と決め、30歳で代官山の日本料理店の店長兼料理長になりました。が、次第に「もっと大きいところで働いてみたい」という想いが募り、センチュリーハイアット東京に移って、2店舗あるうちの1店舗の料理長になったのです。そこには2店舗両方を見ている統括料理長がおられたので、私はすぐさま「必ず40歳までに統括料理長になる」と目標を定め、37歳のときに統括料理長として同系列の静岡のホテルへ出向しました。
そのころから「ホテルのレストランといえども、料理が美味しくサービスが良ければすべてよし、という時代ではない」と感じるようになり、40歳を過ぎてから横浜商科大学の商学部貿易観光学科に入学、仕事の空き時間に通いました。料理人などの職人というのは、基本的に時間や経験を積み重ねて、これがいいとか悪いとか判断し、それをそのまま下の世代に伝えます。しかし学問というのは「なぜそうなったのか?」を細かく分析し、系統立ててから相手に伝える。これから先は料理人も具体的になぜそうなのかを個人個人でしっかりと考え抜かぬかなければいけない、と実感しました。
と同時に「日本料理をもっとグローバルに伝えるためにはどうしたらいいのか」を考えていたところ、たまたまグランドハイアット東京からのお話があり、「外資であれば将来的に世界の日本料理を統括して見ていけるかも」と思って移りました。オープンが忙しく、大学は残念ながら辞めることになりましたが。
数年後にはコンラッド東京に移り、そこでも日本料理をもっと海外に広められる方法を日々模索していたのですが、しかし個人のそのような想いがすぐに結実するわけではありません。最初はホテルという大きな組織だからやれるだろうと思っていたのですが、大きすぎると逆にできないということもある。それで悩んだのち、独立を決意したのです。
今後の目標は2つあります。まずは自分のレストランオープンです。アイデアとしては、生産者の人たちを身近に感じられるレストランがいい。つまりレストランが大根を作った農家のAさんの発表の場になるということ。そこで農家も評価されるし、外装や内装、器、働く人たちもみな試される。全員が一流でないとレストランという舞台は輝かない。歌舞伎だって、黒子が一流でないと主役は輝かないでしょう。
もう1つは、外国人が学べるレストランです。日本でフランス料理やイタリア料理がこれだけ伸びた理由は、日本人が実際に現地で修行して日本に戻ってきたからだと思う。だから日本も日本料理を勉強したいという外国人を積極的に受け入れるべきなんです。彼らに料理、食材、お酒など日本の食文化を正しく理解してもらい、好きになってもらえば、彼らはその母国で「日本食の魅力の語り部」となり、日本食のファンを増やすでしょう。また、日本のフレンチのシェフが本場の食材やワインをフランスから取り寄せるように、日本の食材の需要の拡大(輸出など)にも、ゆくゆくはつながることと思います。
いま、スイス人の24歳がひとり待機しているんです。今年の4月から来て、日本語学校に通っている。向こうではフレンチを学んでいたそうですが、これからは日本料理だと思ったのでしょう。彼の今後が愉しみです。


「お互いに心が通じ合わないと、良い料理ができない」との信念で、地元の旅館経営者と調理師とは、何度も議論を交わしている。


参加者の全員が納得いくまで、何度も味を吟味して、秋の新メニュー「棚田鍋」はようやく誕生した。
日本のおもてなしは「腹一杯」ではなく「腹八分目」。
エコな食事はそこからスタートする。
いま私が心配なのは、生産者も料理人も、ひと手間を惜しむようになってきたこと。手間を惜しむと、瞬間的には楽になるけれど、あとあと実は苦労する。一時「もったいない」という言葉が流行りましたが、本来料理というのは常にそうだった。ケチや貧乏臭いというのではなく、余すところなく使うというのが普通にされていたことだったんです。
また、日本のおもてなしというのは「腹一杯」ではなく「腹八分目」だったはず。「季節」や「旬」を大事にしてきたはず。大量に安く、年がら年中食べられるというのではなく、農家の人もいましかない野菜を作り、料理人もいましか作れないものを作る。それが結果的にCO2を出さないエコな食事に一番近いと思うのです。「来年の夏が待ち遠しい」とか「秋になったらあれを食べに行こう」という想いを消費者に感じてもらうためにも、いまもう一度「ひと手間かける」ということを思い出してほしい。
私にとっての「こころのキッチン」は、その場を設けられたことに感謝できるかどうかということ。料理人は、生産者の想いを料理に変えて、消費者に提供する。だからこそ、生産者、生産物に対しての感謝と、食べてくださる消費者への感謝を忘れてはいけない。感謝すると、行き着くところは楽しいんです。楽しいと嬉しい。つまり、キッチンは楽しい場所であるべきです。
一料理人として、これからも日本料理の魅力をくまなく伝えるために精一杯努力していきたいと思っています。
(2010/07/16)
撮影協力:
やさし也さい
東京都渋谷区広尾5-2-25 本国ビル B1F
03-6450-3834

旅館と農家だけではなく、地元の土産物店、鉄道会社、タクシー会社、行政機関が集まる会議にも出席。地の素材を活かすことの大切さを訴えている。

撮影協力:やさし也さい