

1976年、秋田県生まれ。2000年、早稲田大学大学院を中退後テレビ制作会社に入社し、おもにドキュメンタリー番組のディレクターを担当。広告制作会社勤務を経て、2009年、島根県隠岐郡海士町観光協会が公募した“行商人”に採用される。海士町のみならず全国の離島の名物料理を集め、キッチンカーで移動販売する「離島キッチン」を自ら企画し、同年10月から東京、千葉、神奈川など首都圏にて営業をスタート。



日本の食の風景「こころのキッチン」を守り、育てて行くために、
様々な立場の、様々な人たちが、様々な活動を続けています。
今回は、名物料理の移動販売を通じて全国の離島の魅力を伝える
島根県隠岐郡海士町観光協会職員・佐藤喬さんにお会いしてきました。
様々な立場の、様々な人たちが、様々な活動を続けています。
今回は、名物料理の移動販売を通じて全国の離島の魅力を伝える
島根県隠岐郡海士町観光協会職員・佐藤喬さんにお会いしてきました。
転職サイトで、勤務地、職種、給与などを全部
“その他”で登録したら、この島にたどり着きました。
本土から約50km離れた日本海に浮かぶ島根県隠岐群島の1つ、中ノ島(海士町=あまちょう)観光協会の“行商人”として、東京、神奈川、千葉など首都圏で移動販売カー「離島キッチン」を営んでいます。隠岐名物の「サザエカレー」に加え、鹿児島県奄美大島の「奄美鶏飯」、兵庫県家島の「あなご丼」、長崎県対馬の「とんちゃん」など、全国各地の離島で食べられている名物料理を気軽にテイクアウトしていただけるこの「離島キッチン」を企画し、自ら店長を務めているわけですが、そもそも僕は秋田県の山奥の出身で、隠岐群島にはまったく縁がありませんでした。
行商人になった最初のきっかけは、遊び心なんです。テレビ番組やCMのディレクターをしていた2009年の2月、ふと転職サイト『リクナビ』で「希望を全部“その他”にしたら、いったいどんな仕事があるだろう」と思って検索してみたんです。勤務地=“その他”、職種=“その他”、給与=“その他”…という具合ですね。するとたった1件だけ、海士町観光協会がヒットしたというわけなんです。
当時、子どもが食アレルギーを持っていたので、食べ物はできるだけ安全で安心なものをと気をつけていましたし、僕自身もどうせ食べるならおいしいものを食べたいと思うタイプ。また、日本の食産業を見渡してみても、外国への依存度が非常に高くて、日本人が本当に食べたいと思うものが気軽に手に入らないという状況を異常だと、つねづね感じていたんですよね。ですからこの海士町の求人情報に、ピンと来たんです。
面接で現地に行って、そこで初めて海士町を「あまちょう」って読むんだと知りました。そのぐらい、海士町には縁もゆかりも予備知識もまったくなかった僕ですが、訪れた際に新鮮な岩牡蠣をご馳走になったとたんに「いい町だな」と(笑)。穫れたての海産物の衝撃的なおいしさと、あたたかい生産者の方々の心に、僕は一発でノックアウトされたんですね。それにこの隠岐群島は、焼き肉ファンには有名な隠岐牛の産地でもありますし、また離島には珍しく、お米も穫れると聞きました。牛肉もお米も、食べてみると絶品でした。
「離島キッチン」はあくまでも「方法」の1つ。
その「目的」は全国の離島の魅力を伝えることです。
僕が応募した“行商人”というのは、海士町のスタッフの一員として、島をPRするため都会を拠点に活動する営業マンという位置づけでした。PRのための企画を考えるのは制作会社時代からずっとやってきたこと。なので同じように海士町を、そして全国の離島をPRするためには何が効果的かと考え、プレゼンしました。僕が提示した方法は3つ。1つは大学と連携した活動、2つめはキッチンカーを用いた移動販売、そして3つめは…何を言ったか忘れちゃいました(笑)。
とにかく「離島キッチン」は、それ自体が「目的」なのではなく、「方法」の1つなんです。あくまでも「目的」は、都会の生活者に島の魅力を多くの人に知ってもらうこと。いわば、離島の「動く東京支店」。そして「人が集まる東京支店」と位置づけています。たとえば「サザエカレー、おいしそうだな」とお店に立ち寄ってくれたお客さんに、島の観光パンフレットやイベントのチラシ、求人情報などを渡すことができます。何も仕掛けずに海士町のホームページを見てもらうことはゼロに近いでしょうけれど、ウチのショップカード(名刺)をもらってくれたら、そのうちの数%でもサイトにアクセスしてくれる人がいるかもしれない。これは情報を発信する側としては大きな差となります。
また、「離島キッチン」で実際に食べた食材を「家でも食べたいから、取り寄せたい」と問い合わせを受けることも頻繁にあります。そういった場合は島に住む生産者さんに連絡を取り、できるだけ直接に取引していただいています。間に入って新たな利益を出そうという考えは、僕にはありません。あくまでも「島」と「都会」をつなげることが僕の指命。生産者にも消費者にも、余分な負担は掛けさせたくないんです。
さらに僕は、このような活動を海士町が単独で仕掛けるのではなく、全国の離島とネットワークを組んで活動したほうが、より多くの人にアピールすることができると考え、協力を呼びかけました。だからネーミングも、「海士町キッチン」でも「隠岐キッチン」でもなく「離島キッチン」なんです。反対意見もいくつか出ましたが、最終的には賛同してくださいました。おかげで活動は徐々に他の島にも広がりつつあります。「離島キッチン」に奄美大島の職員が視察に来たり、伊豆諸島の高校生がお手伝いに来たりしていますので、確かな協力関係を築けていると実感しています。
都会の人に島をPRする「離島キッチン」はいつも大盛況。
次のステップは、固定店舗をオープンすること。
将来は1人に1つ、心に“マイ離島”を持ってもらいたい。
僕にとっての「こころのキッチン」は、中学時代に同級生と毎日寄り道していた茶屋です。僕は一人っ子で、父の帰りが遅かった。母は父の帰りを待って夕食をとっていたので、小学生時代の僕は毎日1人で夕食を食べていたんですね。それが中学生になると、放課後一緒に出歩く仲間ができて、みんなであれこれ悩みごとを話しながら毎晩おでんやらラーメンやらを食べるようになったんです。そうやって食べるご飯は、本当においしかったですね。
「離島キッチン」にも、老若男女、本当に幅広い年齢層の人たちが次々とやってきてくれます。女子高生の集団が丼飯をみんなで買って食べている光景を目の前にした時なんて、僕自身の中学時代の想い出がこみ上げてきたものです。
先ほども申したとおり、「離島キッチン」はそれ自体が「目的」ではなくあくまでも「方法」の1つなので、「離島キッチン」自体を大きくすることはそれほど重要なテーマではありません。けれど、キッチンカーではあまり多くの食材を積めないこともあって、島の魅力を伝えるのに十分なツールだとも言い切れません。そこで近い将来、「離島キッチン」を固定店舗としてオープンしたいと計画しています。実現できればもっとメニューも増やせるし、島の観光映像を店内で流すなど、より効果的なPRもできるようになると考えています。お客さん同士の交流も深まれば、離島をPRする新しいアイディアも生まれるかもしれませんよね。
そして、さらにその先には、離島を舞台にした映画を制作したいというプランも、僕の頭の中にあります。そうなれば島への観光需要も増え、特産品も売り上げが伸びるかもしれない。島に定住する人も出てくれば、島の産業も活性化し、島で暮らしている人の生活も豊かになるかもしれない。
そうなった時、きっと世の中は今よりもっと楽しくなるだろうと思います。『リクナビ』で検索した当時、僕にとってまったくの“その他”の土地だった海士町が、いつの間にか“マイ離島”になった。それと同じように、「離島キッチン」を発信地として、多くの人の心に、故郷とはまた違った“マイ離島”を育み、みんなの心をもっと豊かにしたいと思っています。
(2010/06/03)
「離島キッチン」ホームページ
http://ritokitchen.com/
「離島キッチン」のキッチンカーと佐藤さん。