安くておいしい食事を提供し、
地域の人と人をつなぐ場に。

 神奈川県藤沢市の最西北部、慶応大学藤沢湘南キャンパスから徒歩15分のその店は、豊かな田園風景の中にありました。
 店の看板を頼りに道を曲がり、急な坂道を登りきれば、目の前に立派な古民家が。建物は築90年になるそうで、手前には手作りの水琴窟(すいきんくつ)、裏手には畑、脇には竹林や樹齢150年のたぶの樹があり、食事の前に五感を刺激する、まさに「癒しの空間」が広がっています。
 店を切り盛りするのは、「おとうさん」こと古屋昌壽(まさとし)さんと「おかあさん」ことさちこさんご夫妻。いい匂いがただよう店内で、さっそくおふたりに話を伺うことにしました。
 サラリーマンだったおふたりが店を始めたのは今から33年前。当時38歳だったおふたりは、何の準備資金も何の野心もなく、ただ「このあたりの地方から来ている若い子たちに、安い料金でおいしい料理を食べて元気になってもらいたい」という願いをこめて、小田急線の六会日大前駅近くに「へっころ谷」という店を開きました。
 その際に大事な料理だったのが、「ほうとう」です。
「山梨では女の子は小さいころからほうとうを作る。妻も小学3年生からほうとうを打っていたので、それを活かそうということになったんです」と昌壽さん。「私が育ったころはほうとうがご飯代わり。毎晩食べましたよ。家でも粉から作るんです。子どもが作ったり、おばあちゃんが作ったり、お母さんが作ったり。両親が畑で働いているなら、学校から帰ってきた子どもがほうとうを作る、というのが当たり前の風景だったんですよ」とさちこさん。
 なるほど、山梨県出身の二人にとって、ほうとうは郷土料理であり、栄養価満点の料理であり、また家族の絆を結ぶ料理でもあったのです。
「安くて、うまくて、家庭的」がキャッチフレーズだったその店は、すぐに人気店となり、3人の子どもはそんな両親の背中を見て育ちました。特に3番目の次男は専門学校卒業後に就職せず、そのまま店で働くように。
 そして時は過ぎ去り、2004年冬のこと。自宅のあるこの藤沢市打戻でも、もう1軒店をやろうかと物件を探していると、偶然発見した空き家の古民家が、なんと知人の持ち物だったそう。「地域の活性化になるからいいですよ」と快諾され、すぐに改装工事に入りました。
 その改装工事も実に温かい絆が感じられるもの。なんと友人知人はもちろんのこと、学生を含むお客様たちが総勢80名のボランティアとなって、解体作業や壁塗りを手伝ってくれたのです。

「元気に育ってね」という言霊農法で
野菜は期待に応えてくれる。

 4カ月の工事を経て、2005年6月にオープンした店が、この「へっつい庵 ごんばち」です。昔懐かしい土間や土壁、けやきの大黒柱、そして窓から注ぐ温かい太陽の光。おふたりの「田舎の祖父母の家に帰った気分で過ごしてもらおう」という想いが伝わります。
 2つの店を行き来しながら数年ののち、おふたりは2008年に「へっころ谷」を正式に次男に譲りました。次男はそのとき奇しくも38歳だったそうです。
 さてこの2つの店を支えているのが、25年も無農薬野菜づくりに取り組んできたという自家菜園です。
 一つは店から3キロほど離れたところにある250坪の畑で、いまは人参、大根、小松菜、ほうれん草、さやえんどう、ヤーコンなどが育っています。また小麦畑も600坪あり、それを粉にしてほうとうにも一部使っており、大豆を育てて味噌作りも実践しています。ただし野菜も小麦粉も自前だけでは足りないので、その分は近くの直売所などで仕入れています。
「自分で畑を持とうと思ったのは、やはりお客様がおいしいと思うもの、安心安全だと思うもの、元気になるものを提供したかったから」と昌壽さん。「それに畑仕事が好きなのよね」とさちこさんが笑顔で付け加えます。
 しかもへっころ谷は日本大学、ごんばちは慶応大学が近いのですが、いまの学生はけっこう土いじりが好きで、彼らの畑仕事を手伝ってくれるのだとか。
 基本は無除草、不耕起(ふこうき)の自然栽培。無除草というのは、地上から出ている分だけ釜で刈って、それを野菜の根のところに伏せておく。そうするとそれが野菜の栄養になるし、雑草もおさえることができるのだそうです。不耕起は、トラクターをかけないこと。それをやると土中のいろんな微生物が破壊されるので、鍬で耕すだけにしています。
 そして、おふたりとってさらに肝心なのが、「言霊農法」です。「種を蒔くとき、苗を植えるときは『元気に育ってね』と言い、育ってくれたら『元気に育ってくれてありがとう』と言う。学生さんにも『願いをこめて念じてやれば、野菜は期待に応えて育ってくれる』と教えています」。

離乳食から病院食まで。
栄養価満点のほうとうの、もう一つの魅力。

 ここを訪れるお客様は、赤ちゃんからご年配まであらゆる年代層の方がいます。ほうとうは離乳食代わり、病人食代わりにもなるのです。
 しかも33年もこのような温かい店を続けてきた結果、最高で4代に渡るお客様がいらっしゃるのだとか。「最初は背中におぶわれていた子どもが、いつの間にか自分の子どもを連れてやってくるんですよ。嬉しいですよね」とさちこさんが満面の笑みを浮かべます。
「いまとなっては笑い話だけれども、初めたころはほうとうがまだ全国区になっていなかったので、当時のお客様に説明するのが大変でした。『きしめんみたいなもの?』『焼うどん?』『太いうどんだよね?』なんて言われてね(笑)」
 しかしいまはほうとうは全国区。結構知られる存在となりました。そこにこの店の活躍が一役買っているのではないか、と思うのは考え過ぎでしょうか。
 お話を伺ったあとで、おかあさんが作ってくれたほうとうを食べると、体がぽかぽかしてきました。ほうとうの味は、確かに、人と人の繋がりの味がします。

(レポート: k.hori/2010-12-15)
「へっつい庵 ごんばち」メニュー
国内産の地粉、にがりをたっぷり含んだ天然塩、山梨県の天目山の天然温泉水を原料とし、使う分だけを丹念に練り上げて熟成したほうとうを、毎日、手打ち・手延し・手切りしている。作り置きは一切せず、注文のあとに生の麺と野菜を煮込んで出す。
20年空き家だった家を改装。立派な柱や天井や梁は残し、床や壁は全面撤去して手を入れた。竹を組んで縄でゆわいて、泥の壁を塗るという方法を左官屋さんに教えてもらって、あとは自分たちでやったのだとか。
1階店内奥の土壁を1カ月単位で無料で貸出している「土壁ギャラリー」。個人、サークル、施設などの発表・販売の場として利用できる。
養蚕部屋を改装した2階の「遊々床」。食前食後に読書や昼寝、碁、レコード鑑賞などができる。
江戸時代の庭師考案の音響装置、水琴窟(すいきんくつ)。主に寺院や茶席に設置されている。手順どおりに聴くと、心身ともに癒される。